2009年01月19日
奥地 のブログ的独り言当時の河内畠山氏の情勢
こんなことがあったんですね。
面白いです。
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河内畠山氏の一流である畠山尾州家(高屋畠山氏)の当主。畠山政長の孫にあたる。
当時の河内畠山氏は政長流の尾州家と畠山義就流の総州家とに分かれ抗争をつづけていた。明応の政変で祖父の政長が細川政元らの策略により横死し、父の尚順は紀伊に逃れ力を蓄え、数年後に総州家の畠山基家を滅ぼし河内奪回を一時的に果たしたものの、政元が基家の遺児である畠山義英を支持し尚順を追討したため、再び河内を追われ、その後も前将軍足利義材支持の中心人物として、畠山氏が基盤を持つ畿内と北陸において活動を続けた。
後、薬師寺元一の反乱により畿内が動揺すると、尚順と義英とは和睦するも、反乱を鎮めた政元は河内に軍を派遣し、尚順と義英は共に追放され、やはり河内復帰はならなかったが、1507年に政元が暗殺されると(永正の錯乱)、その後継をめぐって細川澄元と細川高国が争い、義英と尚順の和睦も破棄され、義英は澄元、尚順は高国の陣営に与した。
やがて周防の大内義興に奉じられた義尹(義材)が上洛し、将軍職に復帰し(足利義稙)、細川氏の内訌も高国方が勝利するが、尚順もこの上洛を支持し、堺において義尹を出迎えている。政治的に優位に立った尚順は1513年に義英を大敗させ、総州家を一時没落に追い込んだ
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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